もし明日、ChatGPTやClaudeが日本から使えなくなったら、日本のビジネスはどうなるでしょうか。
荒唐無稽な仮定に聞こえるかもしれません。ですが、これは2026年6月に、現実の一歩手前まで進んだ話です。米AnthropicのAIモデル「Claude」が、ある日突然、日本を含む世界中の利用者から取り上げられかけました。理由は技術的な不具合ではありません。他国、それも同盟国である米国の、政治的な判断でした。
便利だから、賢いから、と外資系AIに寄りかかってきた足元が、ある日いきなり抜ける。この記事では、その「AI地政学リスク」を出発点に、日本の「国産AI」がいまどこにいて、これからどこを目指すべきなのかを、素人目線で整理していきます。
1. 「AIの兵糧攻め」というリアルなリスク
まず、実際に起きたことから見ていきます。
米AnthropicのAIモデル「Claude Fable 5」と「Claude Mythos 5」は、2026年6月9日に公開されました。ところがそのわずか3日後の6月12日、Anthropicは両モデルへのアクセスをすべて停止します。米国政府が国家安全保障上の権限を理由に、外国籍者によるアクセスを禁じる輸出管理指令を出したためです。
停止の対象範囲が、この話の怖いところです。米国外の利用者だけではありません。米国内にいる外国籍の人、さらにはAnthropic自身の外国籍の社員までもが対象に含まれていました。公開直後の最新モデルが、政府命令で世界中から一斉に使えなくなる——そんなシナリオが現実になったのです。
ここで一度、言葉の意味を押さえておきます。「輸出管理指令」とは、国が安全保障上の理由で、特定の技術や製品を国外に出すことを制限する命令のこと。半導体などで使われてきた仕組みが、いまやAIモデルそのものに向けられたわけです。ちなみに、この一件では「Opus」「Sonnet」「Haiku」といった従来モデルには影響がなく、最新の最上位モデルだけが狙い撃ちされました。
その後、事態は動きます。米商務省は6月下旬に規制を一部緩和し、100を超える米国の組織向けにMythos 5の提供再開を認めました。そして日本時間の7月1日、輸出規制の解除が発表され、Anthropicは翌日からアクセスを順次回復すると表明しています。加えて、この間にはOpenAIも政府の要請を受け、次期モデル「GPT-5.6」の一般公開を延期しています。つまり最新AIの公開可否を政府が握る動きは、一社限りの騒動ではないのです。
騒動はひとまず収まりました。ですが、収まったからこそ見えたものがあります。便利だからと外資系AI(OpenAIやAnthropic、Googleなど)に全面的に頼れば、他国の政治的思惑や安全保障を理由に、ある日突然ハシゴを外されうる。この構造は消えていません。いわば「AIの兵糧攻め」——供給元に首根っこを押さえられているのだ。
思い返せば、日本には既視感があります。パソコンやスマホの土台となるOS(WindowsやMac、iOS、Android)。企業のシステムを支えるクラウド(AWSやAzure、GCP)。いずれも外資に主導権を握られ、私たちは使わせてもらう側に回りました。そしてAIは、その次の主戦場です。他国に金を払い、他国のルールに従うだけの「デジタル小作人」でいいのか。今回の一件は、その問いを突きつけたのだ。
2. 「オープンソースのチューニング」に潜む罠
では、日本には対抗手段がないのでしょうか。もちろん「国産AI」はあります。ただ、その中身を知ると、話はそう単純ではありません。
現在の「国産AI」の多くは、ゼロから作られたものではありません。海外で無料公開されているAI(MetaのLlamaなど)を土台に、日本語を追加で学習させたものが中心です。ここで言う「オープンソース(OSS)」とは、設計図にあたるモデルが無償で公開され、誰でも改良して使える仕組みのこと。そして「追加学習(チューニング)」とは、既にできあがった賢いAIに、日本語や特定分野の知識を後から教え込む作業を指します。
たとえば、政府が行政業務向けに試用する国産LLMとして選ばれたソフトバンク9434の「Sarashina」系や、大規模言語モデル研究開発センターの「LLM-jp-3 172B」などは、いずれもLlamaをベースにしています。「LLM」とは、大量の文章を学んで人間のように言葉を扱う大規模言語モデルのこと。ChatGPTの頭脳にあたる部分だと思えば十分です。
この「土台を借りる」やり方には、いま大きなメリットがあります。AIをゼロから作る「事前学習」——白紙のAIに膨大な文章を読ませて言語や知識を一から仕込む工程——には、数億〜数百億円規模のコストがかかるとされます。一方、公開済みの賢いAIを土台にすれば、その何分の一かの費用で「そこそこ賢い日本語AI」が手に入る。極めて実用的で、合理的な選択なのです。
ところが、話はそこで終わりません。この「借り物」路線には、未来の罠が潜んでいます。
いまMeta(旧Facebook)のような巨大テック企業が超高性能なAIを無料で配っているのは、テック覇権争いで競合を牽制する狙いがあるからです。この気前のよさが、いつまでも続く保証はありません。実際、無料公開されているLlamaにも「利用者が月7億人を超える巨大サービスは別途許可が必要」といった条件が付いており、完全な野放しではないのです。
市場が成熟し、安全保障を理由とした規制が強まれば、流れはこう変わりかねません。最高性能のモデルはクローズド(非公開・有料)に囲い込まれ、無料で配られるのは一世代前の「型落ち」だけになる。そのとき、他国の「残り香」を土台にしている国は、一瞬で置いていかれる。借りた土台の上に建てた家は、地主の都合で揺らぐのだ。
3. 「じゃあ日本はゼロから作れるのか?」
ここで当然、こう思うはずです。借り物が危ういなら、日本もゼロから作ればいいのではないか、と。
結論から言えば、技術的には作れます。実際、取り組む企業や機関はあります。ソフトバンク、NEC、ホンダ、ソニーグループ6758を中核とする新会社「日本AI基盤モデル開発」は、パラメーター(AIの賢さの目安となる部品数)が1兆規模の基盤モデルを目指し、政府は5年間で総額1兆円規模の支援を計画しています。国産AI開発を後押しする国家プロジェクト「GENIAC」は、2024年2月の開始以来、公募総額339億円で延べ約30社を支援してきました。
問題は、作れるかどうかではなく、圧倒的な「リソースの差」をどう埋めるかにあります。ゼロベースの事前学習には、大きく3つの壁が立ちはだかります。
一つ目は、計算資源(GPUとマネー)の壁です。「GPU」とは、AIの膨大な計算を高速でこなす専用の半導体のこと。米メガテックは最先端GPUを大量にそろえ、AI開発に桁違いの資金を投じています。数字で対比すると差は歴然です。2023年のAI分野への民間投資額は、米国が約10兆円、中国が約1.2兆円。対して日本は約1,000億円にとどまり、国別で世界12位でした。日本の投資額は、桁が1つも2つも足りていないのだ。
二つ目は、データの壁です。AIは大量の文章を読んで賢くなりますが、世界に出回る英語のデータ量に比べ、日本語のデータは圧倒的に少ないのが実情です。国も国産AIの課題として「日本語データ不足」を挙げてきました。ただし、これは裏返せば好機でもあります。正しい日本語、日本の商習慣、文化、法律に特化した「コアなモデル」を作ることは、日本にしかできない。データの薄さは弱点であると同時に、他国が踏み込めない領域の入口でもあるのだ。
三つ目は、人材の壁です。AIをゼロから作るには、何千台ものコンピューターを同時に走らせる「超大規模分散学習」を、エラーなく回しきる技術者が要ります。この種のトップAIインフラエンジニアの絶対数が、シリコンバレーに比べて日本は少ない。エンジンを設計できても、それを故障なく全開で回せる整備士が足りないのです。
作れないわけではない。けれど、金と、データと、人という三つの壁が、同時に立ちはだかっている。ここが日本の現在地なのだ。
4. 特化型・ゼロベースAIに国力を
では、私たちはどこに賭けるべきでしょうか。
はっきりさせておきたいのは、全世界向けの汎用AIで正面から米国に勝つのは、現実的ではないという診断です。経済産業省自身が「汎用AIの分野で直ぐに米国等に追いつくことは現実的ではない」と冷静に認めています。ここで見栄を張っても、金・データ・人の三重の壁は動きません。
ですが、勝てない土俵で戦う必要はありません。狙うべきは、日本にしか守れない領域です。医療、知的財産、行政——いずれも「他国にデータを渡せない」機微な情報を扱う分野です。こうした領域で、自国のデータを自国内で学習させ、自国の管理下で動かすAI、いわゆる「ソブリンAI(主権AI)」を持つことには、はっきりとした意味があります。「ソブリン」とは主権のこと。データもモデルも他国に握らせない、自前のAIという意味です。
外資への依存には、もう一つ見えにくいコストも付いてきます。海外のAIサービスを使い続けるほど、その利用料が国外へ流れ出し、「デジタル赤字」——デジタル関連のサービスで海外に支払う額が受け取る額を上回る状態——が膨らみます。日本のデジタル赤字は2024年に約6兆円に達し、今後10兆円規模へ拡大するとの予測もあります。AIサービスの海外依存が続く悲観シナリオでは、2035年までに年間28兆円規模にまで膨らむとの分析さえある。使えば使うほど外へ流れ出る構造は、放置できないのだ。
もちろん、これは鎖国のすすめではありません。汎用AIは海外の優れたものを賢く使い、国益に応じて海外勢と組む。そのうえで、渡せないデータを扱う特定領域だけは、自前で主権を握る。この二段構えが現実的です。全部を国産でまかなうのでも、全部を外資に委ねるのでもない——使い分けが要になるのだ。
では、私たちは何を見ておけばいいのでしょうか。特定の企業や商品に賭けろという話ではありません。ただ、AIをめぐるニュースを「便利さ」の物差しだけで眺めるのをやめ、「これは他国に握られていないか」という物差しを一本、加えてみる。医療・知財・行政のような「他国にデータを渡せない特定領域」で、日本が独自の主権を持つ特化型・ゼロベースAIを育てられるか。そこに国力を挙げて投資できるかどうかが、次の主戦場での日本の立ち位置を分ける。今回のClaude停止騒動は、そのことを静かに、しかし鋭く教えてくれたのだ。
本記事は公開情報をもとにした解説であり、特定の金融商品の売買を推奨するものではありません。投資判断はご自身の責任で行ってください。